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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)7374号 判決 1974年4月01日

原告 遠藤静哉

右訴訟代理人弁護士 岡良賢

同 宇田川好敏

被告 弘中勝義

被告 弘中ヒサノ

右両名訴訟代理人弁護士 宗宮信次

同 栗原孝和

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1.被告らは原告に対し、別紙目録(一)記載の建物(以下本件建物という)を収去して別紙目録(二)記載の土地(以下本件土地という)を明渡し、かつ昭和四四年六月三日以降右明渡ずみに至るまで一ヵ月金一万五三一〇円の割合による金員を連帯して支払え。

2.訴訟費用は被告らの負担とする。

3.仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二、当事者の主張

一、請求原因

1.(本件土地の所有、占有関係)

原告は本件土地を所有し、被告らは本件土地上に本件建物を所有して本件土地を占有している。

2.(賃貸借契約)

原告と被告らは、昭和三四年一二月二四日、訴訟上の和解で、原告を貸主、被告らを借主として、本件土地につき堅固ならざる建物所有の目的をもって、期限を昭和四四年六月二日と定めて賃貸借契約を締結した。

3.(明渡期限の到来)

(一)  右昭和四四年六月二日という期限は、右期日をもって賃貸借契約が終了し、被告らが本件建物を収去して本件土地を原告に明渡す、という趣旨で定められたものである。

(二)  右の合意が成立するに至ったのは以下の事情による。すなわち、本件土地を含む杉並区清水一丁目一一二番一の土地は、もと訴外松原豊治が所有していたものであるが、昭和四年、被告らの先代弘中勝がこれを賃借して本件建物を建築しこれに居住していたところ、太平洋戦争が起り、弘中勝とその子である被告弘中勝義は出征した。残された被告弘中ヒサノ(弘中勝の妻)は空襲が激しくなりつつあったので郷里の山口県へ疎開したが、防火上本件建物を空家にしておくことはできなかったので、原告の両親である訴外遠藤芳門夫婦に本件建物に居住して留守を護ってくれるよう懇請した。このため遠藤芳門夫婦は本件建物に昭和二〇年四月から居住するようになった。戦後、弘中勝父子は山口県の被告ヒサノの疎開先に復員したが、当時の東京の治安、食糧事情の悪さ、復興の見通しの困難なことなどから弘中勝は東京に住む意思を捨て、遠藤芳門に対し本件建物を一五万円で買って貰いたい旨申出た。右申出に対し遠藤芳門はこれを承諾し、手付金五〇〇〇円を支払い、その後すぐ内金として一万円を弘中勝に送付した。右建物売買の話を知った地主の松原豊治はそれなら本件土地も一緒に買ってもらいたいと申出たので、昭和二三年三月三一日、原告は右土地を松原豊治から買受けた。被告両名は、昭和二二年七月二四日に弘中勝が死亡した後、相次いで上京し、従来の経過を全く無視して強引に荷物を運び込んで本件建物に居住するに至り、かえって原告らを邪魔者扱いにし、昭和二八年四月四日には原告らを被告として、借地権確認並びに家屋明渡等の訴訟を提起するに至った。右訴訟の第一審では原告と遠藤芳門が敗訴したが、第二審の東京高等裁判所で前記和解が成立した。その内容は原告らが本件建物より立退く代りに被告らが清水町一一二番一の土地の北側部分三八坪余を返地するということを骨子とするものであった。成立に先だち、原告らとしては、被告らが南側にある広い本件土地を占有し、原告らが北側の狭い土地に押し込められる結果になるので、訴訟に至った経過に照らし、右和解案には到底承服し難いものであったが、被告らが昭和四四年六月二日までには、本件建物を収去して本件土地を明渡すということであったので、原告らは返地を受ける土地に一時しのぎの家を建て、右期日までしばらく辛抱しようという気持になり和解に応じたものである。以上の経緯に照らせば、和解条項に定められた昭和四四年六月二日は、賃貸借契約が同日をもって終了し、被告らが本件建物を収去して本件土地を明渡すべき期限であることが明らかである。

4.(期間満了)

(一)仮に昭和四四年六月二日が右のような明渡期限と認められないとしても、右期日に本件賃貸借契約はその期間が満了し、被告らは更新の請求をしたが、原告は正当な事由が存するので右請求に対し遅滞なく異議を述べた。

(二)(正当事由)

(1)原告は、前記和解により返地を受けたわずか三八坪余の土地に、本件土地の明渡しを受けられるまでの間の一時しのぎの粗末な建物を建てて、これに原告の両親、原告夫婦およびその子供二人の合計六人が居住しているのであるが、当初より手狭だったうえに子供の成長にともないますます狭隘となり、その不便不自由なることは筆舌に尽し難い。

(2)原告の建物は狭い敷地を効率的に利用することに重点を置いた風変りな設計であるため、二階建の建物でありながら階段が多く、隣の部屋へ行くにも階段があるといったふうなので大変住みにくく、また被告らの本件建物の北側にあるため日光がほとんどあたらずそのため原告の家族には常に病人が絶えない。

(3)被告らは郷里の山口県に広大な邸宅を有し転居が容易である。また本件土地の賃貸借は昭和四年以来すでに長年月を経て、本件建物自体も命脈がつきており、本件土地使用の目的は十分に遂げている。

(4)原告は本件土地の所有者でありながらその北側の日あたりの悪い狭い土地にとじこめられ家族も常に病気がちであるのに対し、借地人である被告らは南側の一三〇坪余りの本件土地をわがもの顔に使用し、三八坪余りもある大きな本件建物に居住して豪華な生活をしており、甚だ不公平な結果となっている。

(三)よって本件賃貸借契約は期間満了により終了した。

5.本件土地の賃料は一ヵ月金一万五三一〇円が相当である。

6.よって原告は被告らに対し、賃貸借契約の終了に基づいて、本件建物の収去と本件土地の明渡し、および賃貸借契約が終了した翌日である昭和四四年六月三日から右土地明渡し済みに至るまで一ヵ月金一万五三一〇円の割合による賃料相当の損害金の連帯支払を求める。

二、請求原因に対する認否

1.請求原因1の事実は認める。

2.同2の事実は認める。

3.同3(一)の事実は否認する。和解において原告主張のような明渡期限を定めたことはない。和解が成立するに至った経過および事情は以下のとおりである。すなわち、被告勝義の父である弘中勝は、昭和二一年四月原告の父である遠藤芳門に対し本件建物を昭和二三年三月まで賃貸したが、昭和二二年七月二四日死亡し、被告らがその遺産を相続した。被告勝義は昭和二三年四月から本件建物に居住するようになったが、その一部を芳門に賃料一ヵ月四〇〇円で賃貸することとし、この間原告が本件土地の所有権を取得していたのでその地代を一ヵ月一五円と定め、その差額三八五円を原告および芳門が被告らに支払うことにした。その後建物の賃料、地代はともに増額されてきたが、芳門らが昭和二七年一月分より昭和二八年二月分までの家賃の支払をしなかったので、被告らは催告をしたうえで昭和二八年三月三一日、建物の賃貸借契約を解除し、芳門に対しそれまで同人らが占有していた部分の明渡し等を求め、また原告が本件土地を含む清水一丁目一一二番一の土地に対する被告らの賃借権を争ったので、原告に対し被告らの賃借権が昭和四四年六月二日まで存続することの確認を求めて東京地方裁判所に訴を提起した(昭和二八年(ワ)第二八二八号)。これに対し原告も被告らに対し本件建物の所有権取得を主張して所有権移転登記手続請求等の反訴を提起したが(昭和二八年(ワ)第四七八二号)、同裁判所は昭和三二年九月二六日被告らの請求をすべて認め、原告の反訴をすべて排斥する判決を言渡した。これに対し原告らが東京高等裁判所に控訴した。控訴審においても原審の判断を覆し得べき新たな証拠は出されず、被告らが敗訴するおそれはなかったが、裁判所が親戚同志(被告ヒサノと遠藤芳門はいとこになる)で争うことは避けるよう和解を勧告したので、被告らは移転先がなく窮地に陥っていた原告らの立場を汲んで、三八坪余りを原告に返地するという特別の譲歩を行なって和解が成立したものである。であるから被告らは右和解において昭和四四年六月二日までに明渡すなどという不利な合意をする筈はなく、事実しなかった。

4.同4(一)のうち被告らが更新請求をした事実は認めるがその余の事実は否認する。

同4(二)(1)のうち原告の家族が六人であることは認めるが、その余の事実は否認する。同(2)は否認する。

原告の建物は建築技師の綿密な設計になる奇麗な木造瓦葺二階建(床面積二六坪五合)の新築建物であって、地下室六畳、一階六畳、四畳半、二階六畳、三畳の他玄関、台所、湯殿を有しておって原告家族の居住にとって決して不便不自由なものではない。日照については二階は冬至でも一日中日があたり、一階も相当程度日があたる。同(3)は争う。山口県にある被告ヒサノの建物は古くて使用に耐えない。また本件建物は現在もしっかりしており十分使用できる。同(4)についても争う。

本件建物には、被告ヒサノ、被告勝義とその妻およびその子供三人の計六人が居住し、一家を支える被告勝義は日本航空に勤務する俸給生活者であって、他に転居しうるところはない。これに対し、原告には現在使用している建物がある他、原告の父芳門は山口県に不動産を有し、原告の母は山梨県韮崎市に別荘を有している。よって原告の異議には正当な事由が存しない。

5.同5については、昭和四四年六月二日当時の本件土地の約定地代が一万五三一〇円であったことは認める。

第三証拠<省略>

理由

一、本件土地の所有、占有関係(請求原因1の事実)および昭和三四年一二月二四日本件土地につき訴訟上の和解により、原告を貸主、被告らを借主として堅固ならざる建物所有の目的で期限を昭和四四年六月二日と定めて賃貸借契約が成立したこと(請求原因2の事実)は、当事者間に争いがない。

二、原告は、右賃貸借の昭和四四年六月二日という期限は、右期日をもって賃貸借契約が終了し、右期日に被告らが本件建物を収去して本件土地を明渡すという趣旨で定められたものであると主張するのでまずこの点につき案ずるに、<証拠>によれば、昭和二八年、被告らは当時本件建物の一部を占有していた原告外一名に対し、賃料不払による賃貸借契約の解除および本件土地を含む杉並区清水一丁目一一二番一の宅地の借地権の存在を主張して建物明渡、借地権確認等の訴を東京地方裁判所に提起し(同裁判所昭和二八年(ワ)第二八二八号)、これに対し、遠藤芳門は同年被告らに対し本件建物の売買による所有権取得を主張して所有権移転登記手続等請求の反訴を提起した(同裁判所昭和二八年(ワ)第四七八二号)が、同裁判所は、昭和三二年九月二六日被告らの請求をすべて認め、原告の反訴を排斥する判決を言渡したこと、これに対し原告外一名は東京高等裁判所に控訴し、同裁判所において原告外一名と被告らの間において和解が成立したこと、(以上のうち被告らが原告他一名に対し訴を提起したこと、第二審の東京高等裁判所で和解が成立したことは当事者間に争いがない)、右和解は、被告らが清水一丁目一一二番一の土地のうち北側三八坪二合六勺を原告に明渡し、原告側は本件建物を明渡し、原告は清水一丁目一一二番一の土地のうち明渡しを受けた残りの土地(本件土地)について被告らの賃借権を承認するということを主な内容とするものであること、とくに和解条項の第一項に「被控訴人ら(本件被告ら)及び控訴人(本件原告)は杉並区清水町一一二番宅地一七八坪一合三勺(登記簿上)のうち第二項の土地(本件被告らが本件原告に明渡すべき三八坪二合六勺の土地)を差引いた残地一三九坪八合七勺(本件土地)につき、堅固ならざる建物所有の目的をもって賃料一ヵ月金五九七円、毎月末払、期限昭和四四年六月二日の賃貸借契約の存することを承認する。」と定められたこと、期限が昭和四四年六月二日となったのは、被告勝義の先代である弘中勝が、杉並区清水一丁目一一二番一の土地を最初に賃借したのが昭和四年六月三日であり、右賃貸借が二〇年後の昭和二四年六月三日に更新されて同日より二〇年間期間が延長されたことが前提となっていたこと、和解手続の中で原告側から、被告らは昭和四四年六月二日限り本件建物を収去して本件土地を明渡すという趣旨の条項を入れた和解案が示されたが、被告らがこれを拒否したため、結局右条項が削除されて和解が成立したことの各事実が認められる。<証拠判断省略>。

右認定した事実によれば、昭和三四年一二月二四日の和解で、原告と被告らは、従来から存した原告と被告らの本件土地についての賃貸契約が、昭和二四年六月三日に更新されて、同日からさらに二〇年間存続することの認識のうえに立って、期限が昭和四四年六月二日までであることを承認したのであり、この事実に、前認定の和解条項の文言および和解成立に至る経過を合わせ考えると、右昭和四四年六月二日の期限は、通常の賃貸借契約において定められる賃借権の存続期間を意味するものであり、右期限が到来したときは、借地法の規定に従い賃貸借契約の存続の有無が決せられるものと解するのが相当であって、原告主張のように、賃貸借契約が終了し、賃借人が建物を明渡すべき期限と解することはできない。賃貸借契約の期間が、訴訟上の和解において、「期限昭和四四年六月二日限り」という文言で定められているからといって、ただちに原告のいう明渡期限と解することはできないのである。原告の主張に沿う証人遠藤タヅ子、同遠藤芳門の証言は前記認定した事実に照らし、たやすく措信できず、他に原告の主張を首肯せしむるに足る証拠はない。

原告の、明渡期限の到来したことを理由とする主張は失当である。

三、本件土地上に被告ら所有の本件建物が存していることは当事者間に争いがなく、本件賃貸借契約の期間満了にともない被告らが原告に対し契約更新の請求をなしたことは原告の自認するところであり、これに対し原告が、被告らに対し、自己使用の必要を理由として、遅滞なく異議を述べたことは、成立に争いのない第七号証の一、二により明らかである。

四、そこで進んで正当事由の有無につき判断する。

<証拠>によれば、原告は本件土地の北側に接している三八坪ほどの土地に床面積が二六坪五合ほどの建物一棟を所有しており、これには六畳、五畳、四畳半の和室三間の他勉強部屋(約三畳)、地下室(約六畳の物置)、台所、風呂場などがあるが、この建物には原告夫婦とその子供二人(昭和四八年当時大学生と中学生)および原告の両親である遠藤芳門夫婦の計六人が居住していてかなり手狭であること、原告の建物は、いわば新しい感覚に基づいて、三世代が居住できる住宅として、各部屋から他の部屋を通らずに玄関、便所等へ行けるように立体的に工夫された新しい様式のものであるが、内部は、地階、一階、中二階、二階に分れて階段が多く、七〇歳前後になって足が弱った芳門夫婦らにとっては不便な構造となっていること、右建物の一階部分は、南側にある本件建物のため冬至ころにはかなり日照が制限されること、原告の母である遠藤タヅ子は、山梨県韮崎市に土地建物を有し、不便なところではあるが、夏の間は同所で芳門夫婦が生活することもできることなどが認められる。なお、証人遠藤芳門の証言によれば、芳門夫婦は現在病気がちであることが認められるが、それが同人らの住む右建物の構造、広さ、居住性等によるものであることを認めるに足りる証拠はない。

他方、<証拠>によれば、被告ら所有の本件建物は昭和四年に建築されたものであるが、現在なおしっかりしていて使用に十分耐えうること、本件建物は床面積が一二六・二四平方メートル(三八・一九坪)あり、八畳間、六畳間、四畳半が各二部屋ずつある他、台所、風呂場などがあり、室数は少なくないが、ここに被告ヒサノ、被告勝義夫婦およびその子供三人の計六人が居住し、とくに不要といえる部屋はないこと、被告ら家族の生計を支えている被告勝義は、羽田の日本航空に勤務し、手取約一九万円程の月収を得ている俸給生活者であること、被告らの他の資産としては山口県防府市に宅地一七四坪等の不動産があるが、被告勝義の勤務の関係上そこへ転居することは不可能であることが認められる。右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の諸事実(前記三の認定事実を含む。)に基づいて、原被告双方の事情を比較考量するに、原、被告は、いずれもその所有する建物を家族の居住用に使用しているのであるが、原告は、前記訴訟上の和解により被告らから借地の一部の返還を受け、同所にいわゆる新様式の独立家屋を建て、従来の本件建物での被告らとの同居生活から解放され、原告方の敷地は、本件土地に比しかなり狭いとはいえ、一応満足のできる生活をはじめた(このことは、証人遠藤タヅ子の証言によっても窺われる。)のであって、その後遠藤芳門夫婦は年を重ね、子供達も成長したため、前記期間満了の頃には、右建物も次第に不便で、かつ、手狭なものになったことは否定できないけれども、原告方の建物は、なお不十分ながらも、芳門夫婦、原告夫婦および子供二人が共同生活をすることを著しく困難にしているとはいえない。一方、被告らは、昭和四年本件土地を賃借し、本件建物を建築して以来、戦時中および終戦後の一時期を除いて、引き続き本件建物に居住し、その生活は定着しており、被告勝義の勤務の必要上、防府市の前記宅地へ移ることが不可能なことはもとより、通勤可能な範囲内に代りの住居を求めるにしても、経済上の負担が大きく、その実現はなかなか困難といわざるをえないのであり、当初賃借以来すでに四〇年を経過し、本件土地の利用は長年月に及んでいるが、本件建物はなお十分使用に耐えうるものなのであるから、被告らにおいて本件土地を使用する必要性は、なお十分存在しているといわざるをえない。かような次第であって、原告には、被告らの更新請求を拒むに足る正当事由がないといわなければならない。

しかして、被告のした異議に正当事由が認められない以上、原告と被告らの本件土地についての賃貸借契約は昭和四四年六月三日をもって従前と同一の条件で更新されたものといわざるをえない。

五、よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 杉田洋一 裁判官 大沼容之 大橋弘)

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